香港に着いてまず焦った。 宿の探し方がわからないし、どこに行けばいいのかすらもわからない。 もう少し英語が通じるものだと思っていた。 こんな大都市で、おろおろ困り果てている自分に笑ってしまう。 しかし、15キロもある荷物をしょったまま宿を探して歩き回るほどの体力は、運動不足の僕にはなかった。このまま夜を迎えれば野宿になってしまう。初日から野宿はさすがに勘弁だ。 なんとか、そこらにいた警官をつかまえて身振り手振りで宿の場所を聞く。(ここまでで数時間を要している) どうやら、香港島は東京でいえば丸の内、銀座あたりのような場所で、安い宿はないのだそうだ。みれば高層ビルがひしめき合っている。島を渡った大陸の半島、九龍というところに行けば見つかるらしい。 この旅一泊目の宿(といってもスペースは一畳ほどで、ベットが置いてあるだけの光も入らない牢獄のような場所)に着いたときにはへとへとになっていた。 香港を歩いている人は、日本人ばかりだった。いや、中国語をしゃべる日本人だった。日本語がしゃべれる人には結局一人も会えなかった。 まったく区別がつかない。 おしゃれの仕方から化粧の仕方まで同じなのだ。 通りの本屋にはCanCamが中国語で売られていた。 中国では2月18日~2月25日までが新年らしい。 ちょうどそんな時期に僕は来てしまったのだ。 キャセイパシフィック航空主催のパレードが九龍の道路を貸しきって催されるというので、ひやかしで行ってみた。 ものすごい人だった。 息ができないほどだ。 汗だくになりながらどうにか背伸びをして、視界の隅にとらえることのできたパレードは、なんとも貧弱なものだった。 ディズニーランドのパレードがどれだけ恋しくなっただろう。 香港の有力企業の宣伝パレードのようなものだった。 キャストが何かくばっていたので、もらってみたら単なる広告だった。少し悲しかった。 おじさんが必死になって柵から身を乗り出し、手を伸ばしてパレードの龍に触ろうとしていた。 こんなものに中国人は熱狂するのか、と軽蔑してしまった。 しかし、自分もその人だかりを作り上げている一員なのであった。 世界各国の格好をした団体が通り過ぎていくパレードは、それでも、これから先世界を旅しようとしている僕を祝福してくれているようで、帰るころには奇妙な満足感があった。 香港は出発地点だ。 早めに脱出しよう。 こんなところでもたもたしていたら、移動する気力さえ失ってしまう。 |
当時、ケータイはガラケー。当然海外では使えない。
ノートパソコンなど超重量級のものしか存在せず、持ち運べるような代物ではなかった。
今では笑っちゃうけど、世界一周する日本人の中には訪れる予定の国の地球の歩き方を数十冊持ち歩いている人もいた。
その行為に納得感があり、尊敬さえされるのが、当時であった。
僕も、旅を始めて始めの数カ国分は地球の歩き方を持っていた。
ネットにもつながっていない世界。
それがなければとても旅などできなかった。
では、このブログはどこで書いていたのか。
当時はインターネットカフェを探せば街中で見つけることができた。
薄暗いカフェの中で、皆、ゲームやら何やらやっていた。
僕はそこでブログを書いた。
それが唯一日本と繋がる手段だったから、せっせと書いた。
まず、海外仕様のパソコンに日本語入力の設定を入れ込むことが大変だった。
AJAX IMEという、ローマ字を日本語に変換してくれるサイトがあった。
それをみんな使っていたと思う。
いずれにせよ、当時はまともにブログを立ち上げるのもそこそこ労力のいる作業だったので、海外を旅しながらブログを書く人は珍しい方だった。
今では旅しながらブログやVlogをしない人の方が珍しい。
スローなパソコンで、画像を載せることなど、望むべくもない。
当時のブログには写真が全然載っていない。
香港で始めにたどり着いた場所は、チョンギンマンションだった。
僕は、客引きに連れられて入ったチョンギンマンションの一室で、
笑いが込み上げるほどの安心感を覚えたことを今でも覚えている。
チョンギンマンションはなぜか人を惹きつける場所だった。
目指してもいないのに、辿り着いてしまうほどに、そこは旅人の中心だった。



コメント