列車は朝早くに駅に着いた。 バックを預けて、いざ中国一の聖山へ。 海抜ほぼ0mの岱廟から徒歩でゆっくり登っていった。 延々と続く全7412段の階段と、9kmの道のりをゆっくり登っていった。 泰山山頂へ向かう長く急な階段を、重い荷物を木の棒の両端につけて肩で担ぎながら一歩一歩地道に登っていく人たちがいた。 下の町から山頂へ物資を運ぶこと。 それが彼らの仕事だ。 階段を登って、降りる。 それを、何千、何万回と、命が尽きる日まで坦々と続けていく。 その人のがっしりとして黒ずんだ大きな手が、積み重ねられた登山の歴史を物語っていた。 昔誰かが僕に話してくれた。 神様が、ある大きな罪を犯した罪人に、最もつらい罰を与えた。 永遠に山頂へひとつの岩を運び続ける、という罰だった。 山頂にたどり着いても、神様が岩を下に突き落としてしまう。 罪人はその岩をまた山頂に向かって運ばなければならない。 運んでは落とされ、運んでは落とされ、それを永遠と続けること。 それが罪人に課せられた罰だった。 「まったく無意味なことを永遠に繰り返さなければならないことは、人間にとって死よりもつらいことではないか」と問うている話だ。 これを是とするのなら、罪人となった後の彼の人生は、不幸であろう。 罪人と同じ人生を送っている人が、ここにはいた。 彼らには、山頂に住む人たちに物資を運ぶという使命があるのだから、無意味な人生とはいえないかもしれない。しかし、この山の脇にはロープウェーが架けられていた。そのロープウェーの運賃を節約し、余ったわずかばかりの金を糧に生きている彼らのしていることは、無意味と大して変わらない。 それならば、彼ら運送屋の人生は不幸、ということになるのだろうか。 そのような人生を送っているのは運送屋だけではない。 たいていの人間も同じだ。 たいていの人間も、形は違えど、罪人と同じ人生を送って死んでいる。 まったく無意味なことを、坦々と繰り返し、死んでいる。 それならば、たいていの人間もまた不幸、ということになるのだろうか。 結局、人の幸せを決めるのは、何かを成すとか、何かを残すとかじゃなくて、 周りの人とのつながりなのだ、と僕は思う。 山をゆく彼らは、決して不幸じゃない。 そこには、何段か先をゆく仲間がいる。何段か下から登ってくる仲間がいる。 山頂で待つ人がいる。 彼らは、人と人とのつながりの中で、確かな一歩を歩んでいる。 僕は、罪人も不幸だとは思わない。 彼には、山頂まで岩を運んだとき、それを下まで突き落としてくれる神様がいる。 彼は決して一人じゃない。 「はぁ。はぁ。。はぁ。。。 やっと山頂に着いた。 今回はきつかったな。 神様、今度はお手柔らかにお願いしますぜ。」 「だめじゃ!だめじゃ! こんな岩、海抜0mまで落ちてしまえーい!! こうじゃーっ!!」 ズバーン。ビシャーん。 「うぎゃーっ!!」 こんな会話を山頂で交わしているとき、 罪人の顔はきっと笑っているはずだ。 |
結局、何のために生きてるんだろうね。
今でも、はっきりと答えることはできない。
ただ、その瞬間を楽しんで生きている
そう言い切ってしまうのであれば、罪人の人生を不幸せとは言えない。
自分達の生き様を振り返る。
そこまで含めて初めてこの寓話は意味を持つんだろう。




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